福島家庭裁判所郡山支部 昭和63年(家)2501号 審判 1989年4月18日
主文
申述人らの相続放棄の各申述をいずれも却下する。
理由
1 一件記録によれば、申述人らの父河合清が昭和63年3月24日に死亡し、申述人らがその相続人となつたことは明らかであり、また、各申述人らは父河合清が死亡した当日に右死亡の事実を知り、法律上その相続人になったことを知つたこと、各申述人らは同年12月6日前記河合清の相続に関して相続放棄の申述をしたことが認められ、これらによれば、本件各相続放棄の申述は、いずれも民法915条1項所定の相続放棄のいわゆる熟慮期間である3か月を経過した後になされたものであることが明らかである。
2 しかしながら、相続人が被相続人の死亡の事実及びこれにより自己が法律上相続人となつたことを知つたときから3か月以内に相続放棄の申述をしなかつた場合であつても、それが、被相続人に相続財産(積極的なものも消極的なものも含む。)がまつたく存在しないと信じたためであり、かつ、被相続人の生活歴、被相続人と相続人との間の交際状況その他諸般の状況からみて、当該相続人に対し、相続財産の調査を期待することが著しく困難な事情があつて、相続人において右のように誤信するにつき相当な理由があると認められるときは、相続人が単に被相続人の死亡と自己がその相続人になつたことを知つたときから熟慮期間を起算すべきではなく、熟慮期間は相続人が相続財産の全部または一部の存在を認識した時または通常これを認識しうる時から、起算すべきであり、従つて、本件においてもこのような事情の有無を検討する必要がある。
3 そこで、本件について具体的に検討すると、一件記録により以下の事実を認めることができる。
(1) 亡清は、生前、長男である河合茂明の家族と同居し、亡清の後を継いで建築業を営んでいた茂明の手伝いをしていたが、昭和55年か56年頃に脳卒中で倒れた以降は、大工としての仕事はせずにいた。
(2) 前記茂明が経営していた有限会社○○建築工業は、経営難から昭和56年から58年にかけて○○市農業協同組合から亡清名義で多額の融資を受けたが、結局昭和58年か59年頃に倒産し、前記農協に対する返済が滞ることになつた。
(3) 申述人木村孝夫は、昭和47年に木村典子と結婚して実家を離れ、その後も茂明の経営する建築業を手伝つていたが、昭和58年頃右建築業が不景気になつたこともあつて転職し、以後は正月に実家に行く程度の付き合いとなつた。
(4) 申述人河合和之は、昭和48年に実家を離れて以来亡清と同居したことはなかつたが、年に1、2度実家に帰省して亡清や茂明と顔を会わせていた。
(5) 申述人村田健司は、昭和58年に村田弘子と婚姻するとともに村田信男、俊子夫婦の養子となつて実家を出、その後は正月や盆に実家に帰る程度になつた。
(6) 申述人らは、何れも被相続人名義の農協に対する負債は全く知らなかつたが、亡清が大工をやつており、茂明がその後を継いで建築業を行つていたこと、実家の土地や家屋は亡清の所有であることは知つていた。
(7) 申述人らは、いずれも亡清の死亡の際には連絡を受け、葬儀にも参列したが、亡清の相続財産について相続人の間で相談したこともなく、昭和63年11月に前記農協から請求を受けたことから亡清が多額の債務を負つていたことを知り本件相続放棄の申述に及んだ。
4 以上の事実によれば、申述人らは、被相続人には積極的な相続財産があることを知つていただけでなく、被相続人が前記茂明の経営する建築業に協力していたことをも知つており、被相続人の農協に対する債務が発生し始めた時点では、申述人木村孝夫は前記茂明の下で大工として稼働していたし、申述人村田健司は被相続人及び茂明と同居していたのであるから、右両申述人は被相続人及び茂明とは密接な生活関係を有していたと認められるのであり、申述人河合和之は右両名と比較して被相続人らとの生活関係が希薄であることは否めないが、実家との交際を断絶させたり音信が不通になつたことなどはなかつたのであるから、結局、被相続人の負債についてその存在を知らなかつたとしても、申述人らに相続債務の有無の調査を期待することが著しく困難な事情があるとまでは認められず、被相続人の債務が存在しないと信ずるにつき相当な理由があるとは言えない。この結論は、農家においては相続につき前近代的とも思われるようなルーズな慣行があることを考慮しても左右されるものではない。
5 よつて、本件各相続放棄の申述は、いずれも民法915条1項所定の期間を経過した後になされたものであるから、これらを不適法と認め、主文のとおり却下する。